今でも実は幻なのか記憶の改ざんなんじゃないかと思っている
昔はちなみに、部活自体が曖昧で(今もそうなのかもしれないが)
何部に入ってたという部分もかなりてきとーだった。
あたしゃちなみに化学しながら卓球して陸上してたんだよ。。
硝子(ガラス)の聖域:僕らの化学部戦記
1.アンモニアの王国
中学3年の春、僕たちの「帝国」は完成の極致に達していた。
木造校舎の端、西日の直撃を受ける理科室。そこは、クラスの階級制度から脱落した僕ら「地味系オタ」4人組に与えられた、唯一の治外法権だった。
入部した理由は、今となっては霧の中だ。ただ、入部条件に掲げられた「理科の評定4以上」という、今思えばちっぽけなハードルが、当時の僕らには「選ばれし知性」の証のように思えて誇らしかった。何より、前部長の「ガチャピン」が最高だった。ギョロリとした目に間の抜けた笑顔。彼が卒業して、僕らは自由という名の退屈を手にしていた。
メンバーは、リーダーで理論派のM君。
神経質で、常に世界を斜めから見ている皮肉屋のS君。
ジャイアンのような体躯を持ちながら、野良猫を拾って泣くような優しさを持つA君。
そして、これといった特徴もなく、ただ眼鏡の奥で世界を観察しているだけの僕。
顧問の先生は、自分の研究に忙しく、「これ、ちょっと記録しておいて」と数枚のプリントを放り投げれば、あとは奥の準備室に引っ込んでしまう。
僕らは、アルコールランプの青い炎を見つめながら、ビーカーでレトルトカレーを煮た。蒸留水用の純水を使って淹れるコーヒーは、どことなく無機質な味がした。
「……なぁ、これ、市販のカレーより美味くないか?」
A君が、薬さじでカレーを掬いながら言う。
「それはお前が空腹だからだよ。心理的バイアスだ」
S君が鼻で笑う。
そんな、永遠に続くと思っていた、静かで淀んだ僕らの日常。
2.異分子の混入(コンタミネーション)
その日は、雨が降る直前の、妙に生ぬるい風が吹く放課後だった。
理科室の重い扉が、遠慮のない音を立てて開いた。
「失礼しまーす! ここ、化学部ですよね?」
その場にいた全員の思考が停止した。
入り口に立っていたのは、数人の女子だった。一人、二人……総勢六人。
僕ら四人しかいない空間に、それを上回る数の「女子」という未知の個体が侵入してきたのだ。
一瞬で、理科室の空気が変わった。
薬品と埃の匂いが支配していた空間に、シャンプーか柔軟剤か、あるいは制服のアイロンがけの匂いか、とにかく「清潔で華やかな何か」が強引に割り込んできた。
「え、今日から入部したいんですけど。……君たちが、3年生?」
中心にいたのは、Sちゃんだった。
五月の陽光をそのまま反射したような、小麦色の健康的な肌。ハキハキとした口調。どう見ても、放課後のテニスコートで泥だらけになって「サーブ!」と叫んでいる方が似合う。
その隣で、少し遠慮がちに、でも好奇心に満ちた目で室内を見渡しているのが、Nちゃん。
少し小柄で、丸顔に眼鏡がよく似合っている。図書室の片隅で静かに本を読んでいそうな、そんな佇まいだ。
「……あ、うん。まあ、そうだけど」
M君が、かろうじて声を絞り出した。
A君は、あまりの衝撃に手に持っていた試験管立てを落としそうになり、S君は露骨に不機嫌な顔をして窓の外を見た。僕は、机に広げていた『ニュートン』の雑誌を、なぜか隠すように閉じた。
「よかった! 私たち、あんまり激しい運動とか苦手でさ。ここは自由だって聞いたから」
Sちゃんが笑うと、白い歯が眩しかった。
この瞬間、僕らの「知的な引きこもり場所」は、一瞬にして崩壊した。
3.エタノールの微熱
彼女たちが加わってからの部活は、もはや別の競技だった。
彼女たちは、実験器具を「可愛い」と言い、アルコールランプの火でマシュマロを焼こうと画策した。
「ねえ、これとこれを混ぜたら爆発する?」
Sちゃんが、僕の顔を覗き込んでくる。
距離が近い。あまりに近くて、彼女の睫毛の本数まで数えられそうだった。
「爆発はしないけど、有毒ガスが出るからやめなよ」
「へぇー、詳しいんだね。さすが博士」
茶化されているのか、本気で感心されているのか。
何の取り柄もない、クラスでも日陰を歩いているはずの僕に、なぜ彼女はこうも屈託なく話しかけてくるのか。
彼女はよく、僕の横に座って「今日の授業、マジで意味わかんなかったよね」と、どうでもいい世間話を振ってきた。
一方、NちゃんはM君に、それこそ「吸着」するようにくっついていた。
「M君、ここの計算、教えてくれない?」
M君は困惑しながらも、生真面目に数式を解説する。Nちゃんはそれを聞きながら、数式ではなくM君の横顔を、熱を帯びた瞳で見つめていた。
それは、フラスコの中で激しく反応する薬品を見守るような、危うい熱量だった。
4.真夏の飽和溶液
ある日、事件が起きた。
S君が秘蔵していた、理科の先生から譲り受けたという「高価なクリスタル育成キット」を、女子の一人が誤って床にぶちまけたのだ。
「あ……ごめん」
軽い謝罪。
S君の顔が、みるみるうちに青白くなった。
「……どけよ。触るな」
彼は、這いつくばって結晶の破片を拾い集めた。
室内は、氷を流し込んだような沈黙に包まれた。
気まずい空気の中、Sちゃんが口を開いた。
「……そんなに怒らなくてもいいじゃん。わざとじゃないんだし」
「価値がわからないやつは、黙ってろよ」
S君の言葉は刃物のように鋭かった。
泣き出しそうになる女子たち。
その時、A君がのっそりと立ち上がった。
「まあまあ。S、また先生に頼めばくれるよ。な? それより、今日、アイス買ってあるんだ。みんなで食べようぜ」
A君のその言葉で、張り詰めた糸が切れた。
結局、その日はみんなで、半分溶けかかったアイスを食べた。
S君は最後まで隅っこでブスッとしていたけれど、A君が差し出したソーダ味のアイスを、無言で受け取って齧っていた。
その光景を見て、僕は思った。
バラバラな成分が、一つのビーカーの中でかき混ぜられ、不思議な平衡を保っている。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
本気でそう願い始めていた。
5.ろ過された結末
しかし、化学反応には必ず終わりがある。
夏休みが始まる直前の、夕立が上がった午後。
Nちゃんが、ついに動いた。
「M君、ちょっと……いいかな?」
彼女の顔は、熟したリンゴのように赤かった。
二人は、理科室の裏、錆びついた百葉箱がある場所へと消えていった。
残された僕らは、気まずい沈黙の中で、顕微鏡のプレパラートを整理していた。
数分後。
戻ってきたM君の顔は、いつになく強張っていた。
そして、その後を追うように戻ってきたNちゃんは、眼鏡を外して、スカートの裾でレンズを拭いていた。その肩が、微かに震えている。
「……ごめん。今は、部活のこととか、受験のこととか、そういうので精一杯だから」
M君が、僕らに聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
あまりにもM君らしい、誠実で、そして残酷な拒絶だった。
次の日から、女子たちは一人、また一人と部活に来なくなった。
Sちゃんも例外ではなかった。
「あ、私、やっぱり夏休みは友達と海行くから! 部活、やめるね」
軽い。あまりにも軽い別れだった。
彼女にとって、この理科室は、Nちゃんの恋を応援するための「待ち合わせ場所」に過ぎなかったのだ。
僕に向けられた笑顔も、親しげな会話も、すべては「友達の好きな人の友人」というカテゴリーへのサービスに過ぎなかった。
6.残留物(レジデュー)
気がつくと、理科室にはまた、僕ら4人だけが残されていた。
窓を開けると、またアンモニアと埃の匂いが戻ってきた。
柔軟剤の匂いは、もうどこにもしない。
「……結局、元通りだな」
S君が、新しく育て始めた結晶を見つめながら言った。
「ああ。でも、なんか、前より広い気がするな、この部屋」
A君が、誰もいない女子たちの席を見つめて呟く。
僕は、引き出しの奥に残されていた、Sちゃんが忘れていった安っぽいピンク色のヘアゴムを見つけた。
それを捨てることもできず、僕はそっと共用棚の隅に置いた。
僕らは、またビーカーでカレーを煮始めた。
でも、あの賑やかな数週間が、僕らの中に消えない変色を残していた。
何の取り柄もない僕の、眼鏡の奥の視界。
そこに一瞬だけ映り込んだ、小麦色の肌と、笑い声。
14歳の夏。
それは、飽和状態の溶液から、恋という結晶を取り出すことに失敗した、僕たちの不器用な実験記録だった。
アルコールランプを吹き消すと、白い煙が細く立ち上り、夏の高い天井に消えていった。
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